靖国神社に代わる追悼施設建設の不毛を糾弾する

小泉総理殿、あなたは英霊との固い約束を破るのですか?
靖国神社に代わる追悼施設建設の不毛を糾弾する


「花の都の靖国神社、春の梢に咲いて会おう」(同期の桜)「上野駅から九段まで…せがれ来たぞや、会いに来た」(九段の母)など、靖国神社と国民の心のつながりを謳った歌は枚挙にいとまがありません。どの歌詞を読んでも、前の大戦で亡くなった英霊の方々が、死を目の前にして家族や戦友との媒体を靖国神社に求めておられたことが、ひしひしと伝わって参ります。

 今を生かせて頂いている私たち戦後の国民が、もう戦争は終わったからといって、英霊との固い約束を破って良いはずがありません。まして、第三者のクレームによって大事な約束を違えることは「裏切り行為」そのものです。

■それは姑息な福田官房長官の浅知恵から始まった

 平成十四年十二月二十四日、「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の「報告書」が提出されました。

 この通称「追悼懇」設立の趣旨は、委員の一人である上坂冬子氏が、「報告書」提出の翌日、産経新聞の「正論」欄で「私としては、無用な内政干渉を受けずに済むような祈念碑の設立を期待して懇談会に参加した」と述べているように、中国や韓国からの内政干渉に屈した結果としての産物です。このような内政干渉がまったく不当なものであることは言うまでもありません。問題なのは、わが国の国家としての認識です。

 それは「報告書」の「追悼・平和祈念施設の基本的性格」のなかで、「過去に日本の起こした戦争のために生命を失った外国の将兵や民間人も、日本人と区別するいわれはない」と記しているところに露呈されています。このような発想は、国際法違反の東京裁判に基づく自虐史観そのものです。

 全ては占領政策をそのままに継続してきた戦後体制が原因ですが、このたびの追悼懇による「報告書」は、まさにわが国の伝統を蔑ろにした極めて姑息な内容と言わざるを得ません。まず「報告書」は無宗教を意図していますが、「祈念」には必ず宗教行為が伴います。宗教行為なき「祈念」は、単なるパフォーマンスにすぎません。

 加えて「祈念」する対象が何であるのか−−つまり戦没者の霊なのか、亡骸なのか−−ここが一番肝要なところです。「報告書」で、「この施設における追悼は、それ自体非常に重いものであるが、平和祈念と不可分一体のものであり」という以上は、その対象は抽象的ではなく、具象としてあるべきです。

■国費を使って国益を損なう愚を繰り返すな!

 改めて断るまでもなく、靖国神社や八月十五日の追悼式における対象は明確です。こうした対象の明確な慰霊・追悼に対して、「報告書」で企てるような抽象的な施設は、まったく国費(税金)の無駄使いとしか言いようがありません。中国や韓国からの内政干渉に屈して、無用なる施設を企てるのは、まさしく死者に対する冒涜であると断言できます。

 さらに「報告書」では、戦後におけるわが国の「平和」を強調していますが、はたして本当にそうでしょうか。北朝鮮に二十数年にわたって拉致されていた人々の存在は? 無辜なる国民を拉致されて、この事実を無視し続けてきた政府に「平和」と言える資格があるのでしょうか。

 平和とは戦争に対する対語ではありません。平和の意義はあくまでも秩序です。そのわが国の秩序を破壊するものこそ、此の度の追悼懇による「報告書」であると言っても決して過言ではありません。

 ここに維新政党・新風は、此の度の「報告書」を強く批難すると共に、戦没者を冒涜する施設建設の陰謀に対し、断固反対を表明するものです。

(平成15年1月)